ジャン=ピエール・ダルデンヌ、リュック・ダルデンヌ監督『その手に触れるまで』2019年

胸がつまるほど切実。主演のイディル・ベン・アッディが凄い。心を閉ざしてしまった少年の遠さ。
宗教がいけないわけじゃなく、他者との共存を認めない、そして自分たちと違う他者を(物理的にまで)排除しようとする原理主義が問題なんだと分かる。農場で他者の生そのものと触れ、原理主義的な抑圧が自分の自然な感情すらも排除しようとしているのに気づいていくとき、変わる希望が見える。
原題をそのまま訳せば『少年アメッド』だけど、『その手に触れるまで』。物語の核になるモチーフなので、これは名邦題。役者の創造力が活きてる。
もっと言葉を尽くして上手く記したいんだけど、ひとまず。また観たい。

p.s.武蔵野館はちゃんと喫煙所があるから本当に好きです。

三島有紀子監督『Red』2020年

否定的意見なので、読みたくない人はすぐに引き返して。

観てきたなかでワーストくらいに酷い作品でした。中身がなくて、表面的には綺麗な映像があり中には綺麗でよかったっていう人がいるかもしれないけれど、苛立つほどに空虚。
象徴的シーンもあり、耽美に描こうという意図も感じるけど、頭でっかちに作っている印象。
フェミニズム描いとけばいいでしょって感じなのか、雑すぎませんかね。原作からそうなのかしらないけど、塔子の夫家族みたいなのリアリティに欠けるし、こう戯画的に描くならそれなりに立体性をもたせるために工夫すべきじゃないか。
キャラクターが皆死んでいて、全然肉体がない。あるのは設定だけ。かろうじて、柄本佑余貴美子の演技が役を生かしているくらい。完全に演者の力ですね。
見せ所の赤い布切れってどこから出てきた?見逃したのかもしれないけど、キーアイテムになってたわけでもなく唐突に感じた。またラストシーンは朝焼けで、それまでのトンネルの赤(オレンジ)から太陽のそれに移り、青に向かって行くんだが、赤→青がサイクルになっちゃって循環するのはいいのか?敢えてなのか分からないけど。
あと、鞍田との最後の濡れ場、夫と鞍田が対照されてきて、「最後に抱いてくれ」って言ったところで、おおと少し思ったが、結局腰振ってるの鞍田で「お前が抱くんかい」と幻滅した。どこまでも塔子が受け身で、フェミニズムっぽい要素を入れつつも成功していない、あるいは物語のなかでは敢えて失敗させたのかもしれないが。個人的には最後までガックシきた。

必ずしも大規模の商業的作品ではないと思うし、芸術性を求める方向だと思うのに、お茶の間ドラマ的な演出の過剰や過度なキャラクターに違和感があった。音楽は押さえ目で見せ場で印象的に使っていたのに、それ以外がうーんていう感じ。
映像としては美しいところも多かったと思うので、いい主題ときちんとした問題意識ーー心から撮りたいものを撮るーーがあればいい映画が観れそうな気はする。
いや偉そうに文句言って何様って感じではあるんだけど、なんか期待とのギャップがありすぎて苛々して書いてしまった。大衆娯楽映画ならそのつもりで観るし、アイドル出しときゃいいだろ映画(アイドルが出ている映画を批判しているのではない、念のため)は観ないし映画と思ってないし、文句はない。なんか中途半端さを感じて無性に怒りが。いい邦画が観たい。

ミシェル・アザナヴィシウス監督『グッバイ・ゴダール!』2017年

ゴダールのこと語れるほどよく知らないので、この作品のテクストに限って言えば、芸術と政治の対立を描いたものとして観た。
「68年5月」の挫折と、ゴダールと映画の関係を主題として、「映画か政治か」という二者択一にゴダールは苦しむことになる。
ゴダールが非常にセルフィッシュに描かれ、またそれは確かにそうなんだろうと思うんだけれど、果たして対照的に描かれるアンヌとその友人たちが肯定できるかと言えば、それはできない。単に彼らはブルジョワの居直りに過ぎないから。こうした居直りは、本作で描かれるようなゴダールの欺瞞ないし偽善よりも悪しきものだろう。
かといってゴダール(少なくとも本作の彼)をそのまま肯定すべきでもない。アンヌたちは許せるものではないけれど、この世界のリアリティとして、それを前提に闘わなければいけないだろう。彼らは非常に人間的な、「動物的」感性に根差していて、それは普遍的なものだから、人類の解放を目指す革命には、彼らが必要であり、それを排除するようではダメだろう。
東浩紀「アクションとポイエーシス」という論文があり、ネットでも読めるが、それはこんなことを言っている。政治は分断をもたらし、芸術は連帯をもたらすものだと(かなり大雑把な要約で多分に解釈が入っているが)。アクション(政治的なもの)は即座に友と敵の関係に人を取り込んでしまう。最近では政治的な芸術が流行っているが、これは芸術(ポイエーシス)の政治(アクション)化にすぎない。
ゴダールが苦しんだのは、映画を政治化しえなかったからであり、それ自体はよかった。ただそこから映画か政治かの二者択一に陥るのではなくて、政治を芸術化する道を探るべきだったんじゃないか。政治的映画ではなく、映画的政治を。

グレタ・ガーウィグ監督『ストーリー・オブ・マイライフ』2019年

もう今年(2020年)ベストと決めていいくらいの作品ではないか。今まさに映画にする意味のある原作であり、グレタ・ガーウィグその人が撮ったのもすごく頷ける主題。
構図もカメラワークも素晴らしく決まっていて、最初のワンカットから息を呑む。セットの造りも衣装もその色合いから何から洗練されている。音楽も作品世界に溶け込んで、凝っている印象は受けないがオーソドックスに胸を打つ。フレドリックのピアノシーンがベタなソナタだけど沁みる。流れとシチュエーションによる意味づけがとても効果的で流石という感じ。
若草物語』をほぼそのまま基にし、語り手のジョーを原作者アトウッドに重ねて描く。これは飛躍のある設定ではなく、一般的な解釈を創作に取り込んだものであるよう。好きなシーンはたくさんあるけれど、最後の『若草物語Little Women』を活版で印刷するシーンは、とても美しく、本を手にとって読みたくなる。原作未読なのでぜひ読みたい。
女性の自立を主軸にした本作は、ジョーがすべてを体現してくれているが、「結婚が女の幸せ」というありがちな文句への徹底的な反抗をみせるのだが、それは最後まで観れば単純ではない。その決まり文句が前提にしている社会への怒りもある。ジョーが『若草物語』の出版を会社と交渉するときに言う、「フィクションのなかでも結婚は経済なのね」という台詞は凄まじく印象的だ。しかし、ジョーがはじめ絶対的に反対した結婚は、許容されるものになる。
夢と家族が失われるときには何も残らないから。夢も自分1人では存在しない。夢も誰かのためにあり、誰かなしには叶えられない。ジョーの本はベスに捧げられている。家族=愛がなければ何もない。「結婚」が経済のためなら否定すべきものだが、愛ゆえの結婚なら肯定される。
そうした意味で結婚は捉え直される。そこで一つの不満は、そうした意味で「結婚」は異性愛の制度化ではなく、まさに愛のメタファーなのだから、結婚という形以外の愛にも目配りをしてくれたらもっとよかったかもしれない。
ただ、ローレンのお祖父さんのストーリーは、本作がラブストーリーであるのを越えて、「家族」、つまり類似性・親近性で拡張された家族の物語にしている。
本当に優しい美しい映画だった。

アビー・コーン、マーク・シルヴァースタイン監督『アイ・フィール・プリティ!』2018年

おもしろいしポップだし映画としてよくできていないかと言えばそんなことはなくていい作品。凝ってるかといったらかなりシンプルなんだけど、メッセージ性とエンパワメントの効果を考えると、やはり良作。
展開もかなり読めてしまう。けど、実際映画を観ると、コミカルに描かれていることもあって笑えてしまう(笑うことに不謹慎さを感じたのはセンシティヴすぎるだろうか)。気の持ちようでここまで変わるかって変わりぶりには娯楽が詰まっている。
彼氏がマチズムが嫌でジムじゃない運動場(ヨガみたいなやつ)に行くっていう設定いいと思うのに、主人公はずっとジムっていう設定はもったいなくないか、と思った。ジムって美のヒエラルキーの場で、一元的でマッチョ(少なくとも戯画的には)。確かにスローガンは内面から美しくとか言っているんだけど、イマイチ納得できてない。
社長の扱われ方はよかったと思う。というかガス抜きというか、政治的・保守的にも見えるけど、実際現状の「弱者」がチャンスを掴むには采配が重要。コンプレックスをテコに普遍化するのも

ラナ・ウィルソン監督『ミス・アメリカーナ』2020年

不正義への怒りが止まらなくなる高血圧映画。しかしテイラー・スウィフトが格好良く美しい。疑問もなくある意味普通の感覚で、カントリーソングの女王として輝かしい地位を築き、政治主張は敢えてしない方がいいと自然に決めていた頃から、カニエ・ウエスト(口が汚くて申し訳ないがコイツは本当にゴミ...)の心無い侮辱に傷つき、衆目の的となりマスの誹謗中傷を受け、一度は表舞台から去る。再起し、裁判を経て力強く、しかし深く傷を負いながら、輝きを増し、新たな魅力を得たテイラー・スウィフトに、心動かされない人がいるんだろうか。
被害当事者になって、差別に向き合い、変革を求め力強く行動するという点でジェイ・ローチ監督『スキャンダル』に似た構造があったと思う。テネシー州選の共和党女性候補が女トランプと言われたように、女性を分断統治するような、しかもそれが通用するような社会の常識・環境が根強いのが困難な課題だ。しかし、テイラーの"Only the young"は希望を与えてくれる。only the young can run.変えていくことができるはずである。

アリス・ウー監督『ハーフ・オブ・イット』2020年

さすがのNetflixオリジナル。
音楽もいいし、オシャレ。哲学・思想、フェミニズムの引用が出てきて、田舎に埋もれた才能が他者と交流していき化学反応が起こる。これはNetflix作品のトレンドな気がするし、どれもこれらの要素で高品質に仕上げてるの凄い。とはいえ、何か似てるなあ感があって序盤は「またか」とか思ってると引き込まれていく。地力があるんだろう。
物語・構成と印象的な台詞がエッセンスになっている。
ラブレターの代筆というビジネス(等価交換)に始まり、複雑な心理を経験しつつ交流し、「愛とは何か」と自問させられる。

以下は映画を観て思ったこと。
代筆を頼むアメフト部のポールがほんとにいい役所で、理性的なだけでない抑えようのない気持ちとしての愛や身体的な本能的なレベルからの愛の重要性を教えてくれる。
また愛について、タイトルの言葉が冒頭に出てくる。プラトン『饗宴』の引用だ。失われた半身を探し出すことが愛だと。それは、思う相手と自分が完全な一体となることだが、実際、複雑な関係に複雑な気持ちを抱くのに、完全に誰かと身も心も一つになるとはどういうことか。
多様なセクシャリティを受け容れるとき、各人の愛を認めるということは、差異(違い)を受け容れることだろう。そういうあり方もあるよね、と。
「愛とは厄介でおぞましくて利己的…それに大胆(Love is messy and horrible and selfish ...and bold)」
愛とは「贈与」だ。「交換」とは違うから、それが相手のためになるか本当のところ分からない。その意味で「利己的」だけれど、見返りを求めるのでは「純粋な贈与」=真の愛ではない。だから愛には倫理が必要だ。けれど、守ってばかりでも関係は変化しない。そして関係が変化しなければできない贈与もある。そこには飛躍が必要になる。相手を傷つけかねない身体に根差した感情はおぞましいが、それでも大胆にならなければならない。
最高のエンタメでありながら、深いメッセージ性をもった良作。