長尾龍一『リヴァイアサン』(講談社学術文庫、1994年)

 著者の30年以上にわたる、ホッブズ、ケルゼン、シュミットの3人の国家論を基軸とした国家史の再構成の試みがわかりやすくまとめられた、国家論史研究の書。具体的には、国家批判の書だとされ、特に「近代主権国家による世界分断の批判」が中心主題となっている(3頁)。

 

 まず第一部 国家の概念と歴史。

 国家観には大きく4つある。

①共同体(アリストテレス

利益集団ホッブズ

暴力装置エンゲルスアナキスト

④同一の観念による支配(ex.カインとアベル

 フロイトは「国家とは超自我の虚焦点である」といい、群衆が超自我の投射された対象に従順に服従することを説明したが、これは④だけでなく他の国家観にも当てはまる。すなわち①~③において、「父祖の国制」、「レヴィアタン=可死の神」、「装置」が超自我である。

 

 フロイト理論の国家論的意義にケルゼンは着目し、彼は国家を「擬人化された法秩序」と定義した。ここで「擬人化」というのが超自我の投射に相当する。では法秩序あるいは法とは何か。

 

 法の定義は大別して、強制説と非強制説にわけられる。

強制説——自生的・自発的な秩序の領域(道徳の領域)からの逸脱行動については強制

 力による抑止が必要。その強制力発動の条件を定める規範体系が法。

非強制説——人々から共通に受け容れられている強制的な、あるいは非強制的な秩序

 

 そして国家起源論は、強制的法観念(強制説)を基礎に展開してきた。つまり、法違反に対する強制が、被害者の復讐という非組織的なものから、一定限度の組織性を備え、「暴力装置」とも呼べるものになったとき、国家が成立する。

 

→国家とは「擬人化された法秩序で、違反に対する強制がある程度組織化されたもの」。ex)社会契約説(自然状態→国家の創設)、エンゲルス(「原始共産社会」→「階級搾取のための暴力装置」)

 

 この国家は、強制力のあり方に応じて拡大してきた。守城技術が攻城技術を上回っている間は、城壁内に立て籠もる都市国家(ポリス)がそれであり、攻城技術が逆に上回ると帝国が誕生する。

 

 ここで帝国とは、①内に多様な民族・文化を含む、②全世界を包摂するような宇宙論的存在である。これは広汎な領域に交通網を張り巡らし、そして人々に安定を与えた。大航海時代の幕開けはこれを支えていくようにも思われた。

 

 しかし、16世紀西ヨーロッパの宗教戦争は、帝国を地域的に分断し、「主権国家」を誕生させた。

 

 宗教戦争の凄惨さから、宗教問題を多少とも棚上げすることによって、現世に秩序を作り出そうとする思想と実践が生まれる。

①各宗派の支配領域の地域分割(ex.アウグスブルクの宗教和議)

②宗教から独立した領域を承認し、それを基礎として現世に秩序を形成しようとする運動(ex.ボダンも属した「ポリティーク(政治派)」)。ここでは社会において「私事」として宗教が共存、非宗教的な国家がその共存の秩序を保障。=近代「主権国家」の原理

 

 宗教から独立した領域を認めるかというのは、それ自体神学的問題だったが、中世以来の神学の伝統の中に、この運動を支持する潮流があった。

 

 神には①「絶対的力」と②「秩序の中の力」の二面性があり、②によって作られた秩序は人間的理性によって接近可能な信仰の相違で左右されない領域であるというもの。「自然的理性」によって接近可能な「自然神学」、「自然科学」、「自然法」。→この方向の徹底は奇跡を否定する「理神論」に

 

 こうして近代「主権国家」は、地域的に限定され、脱宗教化し、現世の秩序を保障する主体、宗教戦争・宗教内戦の克服者として登場。

 

 この近代「主権国家」同士の関係はどうなるのか。18・19世紀のヨーロッパでは無差別戦争観がとられた(⇔正戦論)。とはいえ、最低限のルールもあった。すなわち、「ヨーロッパ公法」(これをシュミットは「具体的秩序」と呼んだ)である。

 

 ところが、遅れてきた主権国家ドイツは、「喜び過ぎて主権国家を取り巻く規律や厳しい環境についての自覚に欠け、「上位の権威を認めない」という16世紀的定義を文字通りに信じて、やがて国際的アウトローとなり、自滅した」。

 

 そして最後に第二次世界大戦後の展望が語られる。「今後の人類が直面する、環境・資源・人口・武器拡散などの問題について、人類の連帯による以外に対処することはできない。そして人類を連帯させる現実的な組織としては、国連を除外して考えること」はできないと結論する。

 

 国家は擬人化された法秩序であり、国際法秩序の中の部分法秩序であり、その部分を唯一神になぞらえた「主権国家」論は誤りである。

 

 以上が第一部のまとめで、国家論史の記述は分かりやすくていいけれど、展望に関しては「国連」を有効活用しようってことだと思うが、それは今の国連を言うというよりは理想的な像を描いていると思うのだけれど、具体的な構想については本書では書かれていないので何とも言えない。

 

 世界的な機関の必要性は分かるが、「帝国」には負の側面もあり、自分の関心はもっと小さい部分にあるということを読んでいるときに思った。

 

 次に第二部 近代国家の思想、気になったところを簡単にメモ。

 

「四 ケルゼンとシュミット」

・「真理でなく権威が法をつくる」とうシュミットの決断主義とケルゼン法実証主義(正義(自然法)よりも紛争が終わることの方が重要)との共通性。両者の精神的源流の一つはホッブズの国家論にあることから明らか。

・ケルゼンは法理論においてはホッブズ的な性格をもつが、政治理論においてはむしろルソー的である。ケルゼン民主主義論の中核=民主制の心理的起源を「他律に対する抗議」という「根源的衝動」に求めている。これは無政府主義的願望であるが、それを民主制へと変形する。(cf.「万人と結合しつつなお自己にのみ服従し、従前と同様に自由であるような結合の形式」ルソー『社会契約論』liv.Ⅰ,chap.Ⅳ)

 

「五 ホッブズとシュミット」

ホッブズとシュミットは、その解釈が3つの類型に分かれ、その各々が対応している点で似ている。

ホッブズ①絶対主義者、②近代的思想家、③正統的、キリスト教的思想家

シュミット①20世紀全体主義のイデオローグ、②現実主義的政治思想家、③政治神学者

[ボダンも似てるのではと思った]

 

「六 ホッブズとケルゼン」

・生命と自由の評価をめぐって分岐したホッブズとケルゼンは、「諦観的平和主義」において再び合致した。=自然法に対する実定法の優位(争いが終わることが何よりも重要)