大森立嗣監督『MOTHER マザー』2020年

観たくない予告。観客をバカにしたような映画ばかり流れて、実際そういう映画が興行的に伸びるんだから困るけど。そうして大変なときにも足を運ぶような熱心な観客は少なくなってしまって、総じて興行収入は危機的。新作映画の伸びはよくない。
そんなどんよりとした気持ちで始まった本編。最初のワンショット、これはいい映画だと直感する。最近観た『ストーリー・オブ・マイライフ』ばりの、これだけでその映画の総てをみせるようなショット。上から撮った坂道、降りていく母子。
これだけ芯の強い映画あればまだまだ邦画も捨てたもんじゃないんじゃないと思った。マイノリティを撮った邦画は最近多い気もするけど、なんだか微妙な、言っちゃ悪いけど拙い作品が多い。何を撮るかも大事だが、それ以上にどう撮るかが大事だ。

最小限の音楽は心地いいし、長めのショットでは意図が明確に読み取れるし、少ない台詞でも演技で語る。基本的なことのようでこういうことがしっかりしてるだけで、過不足ない映画が観れるんだと感動した。偉そうかもしれないけど率直な感想だ。
パンフレットも買ったけど、表紙がこれまたいい。表裏どちらにも母と息子のツーショットだが、一方は母・長澤まさみが斜に息子の背を見、他方では息子・奥平大兼が心配と不安の眼で母の背をみつめる。
母は弁明の余地なく残酷なのだが、自分は責める気持ちにならなかった。なんとなくこうなってしまう事情が分かるから。とはいえ、長澤まさみ演じる秋子がこうもどうしようもない人間になった経緯というのはそれほど描かれていない。これが逆に感情移入を誘うように思う。
少ない情報のなかで、姉が大学まで行ったが、自分は行っていないというのがあった。今より少し前になるときょうだい全員を大学に行かせるのは金がかかるし、娘ならなおさら大学に行かせるという選択肢は当たり前ではなかっただろう。そんな時代からバブルも崩壊し共働きがメジャーになり、いつのまにか皆が競争させられてる。スタートラインは実のところ同じではなくて公正な競争とはいえない。真面目に働くなんてバカらしくないか。自己責任なんてごまかしの言葉でしょう。

はてさて、しかしここまで他人に、さらには家族に冷酷になれるだろうか。最近面白い本を読んだ。『人・場所・歓待』という本。人が社会のメンバーとして承認されることがいかに重要か、それがどのように行われ(ない)かが書かれている。奴隷・軍人・移民(外国人)はその身体は私たちの隣にあっても同じ人間として扱われない。名誉のために闘う戦争から物理的な破壊・殲滅を目的とする西洋の近代的な戦争が全面化すると、当然総力戦になる。名誉の闘いであれば、どちらかの名誉が傷つけばそこで闘いは終わる。何千人が対峙しても最初の衝突で趨勢が決せば、そこに神意が表れたとして勝敗が決まる。名誉が問題になるのは「人間」同士だ。互いの人格を認めた者同士だ。
軍人には人格が認められない。モノとして扱われる。だから敵兵を殺しても殺人罪にはならない。相手を人格として扱ったら殺すことなどできない。「人格」を認められないとき、そこに残るのは生身の身体だけだ。総力戦のようなむごい事が起こるのは、生身の身体だけが集まり、ぶつかり合っているからだ。
秋子には名誉など微塵も問題にならない。そして自分の一部である子供を「人格」として扱うことも当然ない。誰にも承認されないということは、元から「存在していない」ということだから、どうにでもなれてしまう。
(さらっとしてるけど万引きのシーンめっちゃいいよね)
でも承認されないということは、とても耐えられるものではない。「人間扱いされな」ければ、尊厳も存在しないから。だから渇望するように承認を求める。リョウを、それがどうしようもない男であってもどこまでも求めてしまう。
また『人・場所・歓待』では、そうした「人間として承認されること」と「場所」というものが結び付いていることが書かれている。ホームレス生活に陥った家族は駐車場に張ったテントや道路、建物と建物の間にいる。公的に存在すべきでない、「場所なき場所」にいるしかない。いてもいい場所にいるときしか安心した生活はできない。ちゃんとした家、行政の提供する家、職場が提供する家、ホテル。最後のホテルの川の字には、家族の束の間の幸福が刻み込まれていた。