クロエ・ジャオ監督「ノマドランド」2020年

filmarksに書きつけたものをほぼそのまま転載する。粗いし作品の描写をもっと引きださないとダメだ。まあとりあえずのもの。

 

ノマド」と「ランド」とは相反するようにすら思える。この二つの語がつなげられたタイトルには、どのような意味があるのか。

 ふつう、ノマドといって思い浮かべるのは土地に縛られず自由奔放に流浪する様だ。土地は強固としてあるのだから、住みかを転々とするのは土地からわざわざ離れようとするからだと思うはずだ。
これは日本の狭い土地に住んでいるから抱く先入見かもしれない。というのも、本作の映像を見てわかるように、アメリカの工業化されていない(できない、あるいはし尽くした)、資源の尽きた、そして荒々とどこまでも広がる大地は、もはやあまりに住むに適しない。もっとも、そうであれば、そんなところに住まなければいいのかもしれない。人が沢山住み、立派な家を建て、裕福に暮らせる土地なら他にあるはずだから。

 

 しかしそうはできない事情というものがある。人間はひとりで生きるのではない。人間的に暮らすには共同体に属し、また共同体に属しなければ、その生はおそらく孤独だ。ただその共同体は持続しある程度固定的でなければ、そこに属する人間の存在も不安定になってしまう。そうした共同体の基盤こそが土地である。しかしなおも、住めないような場所ではなく住める別の場所に定住すればいいのではないかと思われるかもしれない。


 住めないような場所にこだわる理由とはなんなのか。先の共同体の持続という条件にかかわる。共同体の持続とはすなわち歴史である。その土地にはあの人がいた。その人とのかかわりでまたあの人がいる。そしてその人とのかかわりで私が、あなたが。私との、あなたとのかかわりで、また誰かが。
 主人公は、今まで住んでいた土地に、住もうにも住めなくなった。それは自分という存在、実存の危機である。自分の存在はその身ひとつであるわけではない。主人公の場合には、とりわけ愛する夫は、その身体がその形をなくしたとしても、自分の存在の一部となっている。


 壮大な山々、どこまでも広がる大地は、揺らぐことないほど強固であるようだ。しかしそれが人間の存在を表現するものとしては、ときとして頼りなくなることもある。それは、そこに住む人間の歴史・文化が失われようとするときだ。
 主人公は夫がそこにいた証を、その痕跡を、今もとどめようと、つまり自らの存在を守ろうとしている。旅するなかで痕跡を周囲に散りばめることで、その痕跡と痕跡の間での出会いと再会を準備している。それは他者との豊かな関係を含み込んだ時間、つまり歴史を生み出す行為である。
 この主人公の営為を支えるのが詩というのが、象徴的でもあり、とても美しい。