トッド・フィリップス監督『ジョーカー(JOKER)』2019年

filmarks(@decaultr)に感想書いているものが長くなっちゃって、ブログみたいだなと思ったので転載していこうと思う。差し当たりそのまま載せるけど、興が乗れば書き足して自由にもっと長く書くことになるかも。まずは『ジョーカー』。

 

ポピュラー映画として成功していながらこの重み。スコセッシへのリスペクトを大きく感じる。しかし、『キング・オブ・コメディ』、『タクシードライバー』での、他者・社会とのディスコミュニケーションが、マスメディア(テレビ・新聞報道)によって無害化され、あるいは吸収されてしまうのに対し、『ジョーカー』はそれをポピュリズムの力に変える。
だからこそこの映画は政治的な力をもつと思う。それが成功すれば。でも私見では、スコセッシの描いた戦後、あるいは(こう言ってよければ)「ポストモダン」の社会の不気味なまでの権力の形は、もっと手強いのではないかと思う。
ディスコミュニケーションが無害にコミュケートされることの不気味さ。分かりやすい対立構図で、二項対立的に全面対決できない状況。戦争の時代の後の、まさに戦後の、権力とはいわく捉えがたいものになっている。
このなかで取りうる戦略はポピュリズムしかないのか?果たしてそれは成功しうるのか?色々と考えさせられる映画だった。
ジョーカーは見た目に反して不気味ではない。得体の知れなさがなく分かりやすい存在として描かれている。だからこそ共感を呼び政治的な力を喚起する。しかしそれで十分か?闘うべき対象はしかと見定められているだろうか?不気味で得体の知れないのはむしろ権力・社会の方だ。