ミシェル・アザナヴィシウス監督『グッバイ・ゴダール!』2017年

ゴダールのこと語れるほどよく知らないので、この作品のテクストに限って言えば、芸術と政治の対立を描いたものとして観た。
「68年5月」の挫折と、ゴダールと映画の関係を主題として、「映画か政治か」という二者択一にゴダールは苦しむことになる。
ゴダールが非常にセルフィッシュに描かれ、またそれは確かにそうなんだろうと思うんだけれど、果たして対照的に描かれるアンヌとその友人たちが肯定できるかと言えば、それはできない。単に彼らはブルジョワの居直りに過ぎないから。こうした居直りは、本作で描かれるようなゴダールの欺瞞ないし偽善よりも悪しきものだろう。
かといってゴダール(少なくとも本作の彼)をそのまま肯定すべきでもない。アンヌたちは許せるものではないけれど、この世界のリアリティとして、それを前提に闘わなければいけないだろう。彼らは非常に人間的な、「動物的」感性に根差していて、それは普遍的なものだから、人類の解放を目指す革命には、彼らが必要であり、それを排除するようではダメだろう。
東浩紀「アクションとポイエーシス」という論文があり、ネットでも読めるが、それはこんなことを言っている。政治は分断をもたらし、芸術は連帯をもたらすものだと(かなり大雑把な要約で多分に解釈が入っているが)。アクション(政治的なもの)は即座に友と敵の関係に人を取り込んでしまう。最近では政治的な芸術が流行っているが、これは芸術(ポイエーシス)の政治(アクション)化にすぎない。
ゴダールが苦しんだのは、映画を政治化しえなかったからであり、それ自体はよかった。ただそこから映画か政治かの二者択一に陥るのではなくて、政治を芸術化する道を探るべきだったんじゃないか。政治的映画ではなく、映画的政治を。