太宰治『人間失格』初出1948年

本当におもしろい小説。自分の経験に、これほど酒、金、女によって身を滅ぼしたことはないが、この自意識の強さに共感してしまう。

 

徹底して他者からどう見られるかで自己を形成し、またトラウマからか、人間を信じられず当たり障りのないよう逃げるようにして生きる。

 

世間が個人でしかないと思ってから、自分の意志で行動することができるようになるが、今度は「他者」がいない。あるいは倫理がない。だからヨシ子との生活も崩壊した。

 

そしてついには脳病院に送られ、狂人、癈人という社会からの烙印を甘受してしまう。

 

「人間、失格。」

 

世間という大文字の他者はなくとも、目の前に他者はあり、そこでの倫理を失ってはならない。

 

抑圧する者として〈父〉が死んだとき、具体的な存在としての父に向き合っていなかったことに気づいたのではないか。呆然としたのは、目の前の他者への倫理の欠如をそのとき自覚したからではなかったか。

山戸結希監督ほか『21世紀の女の子』2019年

Ⅰ はじめに

 「女の子よカメラを持とう×TAMA CINEMA FORUM 21世紀の女の子」TAMA映画フォーラム特別上映会(2019年8月24日)@多摩市立永山公民会館に行ってきた。見逃していて観たいと思っていたので、とても嬉しかった。しかもトークもあるという!

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21世紀の女の子@TAMA映画フォーラム特別上映会

 僕は第1部と第2部があるうち、第2部の方を鑑賞したので、山戸結希監督、安川有果監督、ふくだももこ監督、俳優の木口健太(ふくだ監督の『セフレとセックスレス』に出演)、ゆっきゅん(枝優花監督『恋愛乾燥剤』に出演)、司会睡蓮みどりのトークが観れた。

 映画は8分以内の15の短編が詰まったオムニバス作品(公式HP:http://21st-century-girl.com/)。8分以内とは信じられないほど高密度で、2~3倍くらいに感じた。1本1本に魂がこもっているのを感じ、観るのに体力がいる作品で、とても生半可な気持ちで観ていられなくさせるような作品なのだ。どれも話のつくり方、撮り方などが違い、作家性の強さを感じるような個性がよく出た短編が詰まっている。

 山中瑤子監督『回転てん子とどりーむ母ちゃん』が、自分のなかでは一番よかったと思う作品だった。テンポ、流れがよくて気持ちよく、映像に力があった。基本的にリアリティのなかでつくられる作品が多い中、抽象性が高い表現を用いているのに、メッセージがストレートで入ってきやすいという、ドキュメンタリーならぬ創作芸術の強みを見せつけられた。なんだろうあの表現力。抽象性は高いのに、手の届くところにある表現というのか、惹き込まれた。

 そして東佳苗監督『out of fashion』もよかった。主人公(モトーラ世理奈)カッコよすぎ。誰かにタイムリミットを決められたくない、っていう言葉がずしんと響いていて、最後の卒業式のはしゃいだ同級生を遠目に、主人公が手前を横切っていくのが最高。卒業したから「大人」になるでもなく、そんなのとは関係なしに大人であり子供である、自分の時間をただ自分として生きている素敵な一人の女の子。

 他の作品ももちろん素晴らしかったのだけれど、個別の作品についてはこれだけにして、トークの方について記したい。トークの方はメモをその場で取ることもしていなかったので、記憶が正確ではないかもしれないが、登壇者たちが言っていたことというのも、すべて「(大意)」をつけて読むくらいの気持ちで読んでほしい。

 

Ⅱ テーマ「自分自身のセクシャリティあるいはジェンダーがゆらいだ瞬間が映っていること」

 まず山戸監督は、創作(表現——以下創作と言われてたところも表現と記す)には、自分が壊れる直前まで悩むことが必要だと思うと言う。それは、壊れて感情をただ爆発させるのではなくて、その感情を批評的に見る、つまり他者に伝えられるような言葉にすることが必要だということだろう。そうした環境をつくりだすために、批評の対象となるだけではなく、映画(表現)がそれ自体批評であるためにこうしたテーマを投げかけたという。

 山戸監督が「批評」を大切にされていることが伝わってきて、とても嬉しかった。そして表現と批評の関係について、それらが完全に分かれていると考えていないことも重要だと感じた(そのことはⅣで論じる)。本作のなかのどれも論理的につくられていると感じることも多く、表現するにあたって、論理的に頭の中でよく整理されている、すなわち作品を言語的に理解する能力の高い人たちなのではないかと思った。特に山戸監督のっ批評的な(言語化する)能力はとても高いのだと思った。次に論じる安川監督の作品について「浮遊」という言葉で評したのが、その一例だ。

 

Ⅲ 両義的なものとの距離感——「浮遊」

(1)安川有果監督「ミューズ」

 安川監督は、自分自身、他人から枠に嵌められる、ある役割を望まれていると感じることがあると言っていた。「女の子」というのは、そうした「枠」(役割)の代表的なものの一つだろう。けれど、そうして枠を与えられることで息苦しさを感じることもあれば、それで得るものもあると言っていて、この物事の両義性を表現したいという気持ちが安川監督のテーマにあるんだろうと思った。物事の両義性の表現が表れているのが、山戸監督が言った「浮遊」感、安川監督の作品の見せ方、すなわち、本作のカメラの距離、位置、舞台のセットの使い方だ。ここに安川監督の物事の捉え方、言ってしまえば世界観が表れている。

 「浮遊」しているというのは、安川監督自身が言っていたようにその対象に「寄り添う」ということであり、ただあるがままを映すことに近いけれど、ともに困難ななかを生きるようなやさしさをもつことでもあると思う。人を枠に嵌め込むことの暴力がもってしまう認め難いプラスの効果をフェアに映したいという安川監督の気持ち(本作ではそれが十分できなかった、つまり「男が悪者」みたいに単純に見えてしまったとご自身で反省されていた)が、どう作品になるのか今後も楽しみ。

 三宅唱監督『きみの鳥はうたえる』とそのパンフレット、その他三宅監督インタビュー、対談から感じたことを今日再び感じたのは、カメラポジション、カットで世界観を立ち上げるということの重要性。安川監督が反省していたことと今後どのように格闘していくのか楽しみだ。きっと、どんな世界観をもつか、どう撮るかというのは、その対象から完全に切り離れてはありえないから、どう対象にかかわるか、監督自身の「監督性」、「語り」、価値観の提示、結論のようなものが積極的に出てくるかが鍵なのかもしれない、あるいはその価値観自体が世界観なのかもしれない。だからこそ、素晴らしかった「浮遊」する距離感という本作のバランスがどうなるのかが気になったり。

 カメラの位置でこだわったところで挙げられていたのが、石橋静河の踊るシーン。やっぱり石橋静河は最高だなと。台詞回しが一番好き。目に力があるのも、素敵な女性だと思う。

(2)枠の両義性とアイドル

 枠の両義性ということで、僕自身が思ったのは、最近ハマった大森靖子ハロプロのこと。大森靖子さんはエンディング曲も歌っていて、上映前後には大森さんの他の曲が流れていた(“流星ヘブン”、“TOKYO BLACK HOLE”、“君と映画”、“ハンドメイドホーム”とか、もう始まる前から最高という気持ち)。大森さんはアイドルグループZOCの「共犯者」として自らプロデュースすると同時にそのメンバーとなっている。大森さんは、人からどう思われるとかではなくて、自分自身がどうありたいかをすごく大事にしている(どの曲も歌詞がいいので聴いたことがない人は聴いてほしい)。

 「アイドル」というと、男の幻想(欲望)が投射された枠の代表のように思われるかもしれないが、ハロプロやZOC、いくつかの地下アイドルは、もちろんファン(観客)がいて彼らにパフォーマンスを届けるのだけれど、パフォーマンスの根底にあるのは、彼女たち自身の欲望だ。批評家の東浩紀が、以前何かの動画で高橋留美子を、「うる星やつら」や「めぞん一刻」を挙げてだったと思うが、初めて女の欲望を描いた(少年)漫画家だと言っていたのが印象に残っている(ぼんやりとした記憶なので正確には憶えていないが)。僕はその発言によって、自分がなぜ高橋留美子が好きなのかわかった気がした。

 僕自身は「男」だけれど、誰かを枠に押し込むことに気味の悪さを感じるし、気持ち悪いと思う。悲しいことにそうした暴力的な現実の代表が「女の子」だから、「女の子」が取りあげられている。「かわいい」「女の子」。「かわいい」はとてもポジティブな力をもっている。加入と卒業が繰り返されるアイドルグループは、羨望の対象であるだけではなくて、自己実現の場ともなろうとしている。他者の欲望が自分の欲望となり、それは段々と元の形を変え、自分のものでしかない欲望になっている。そしてだからこそ、その欲望はまた新たな他者の欲望になるべく、羨望のまなざしを受ける。

 モーニング娘。は、今や20年の歴史をもつアイドルグループだが、当初のメンバーはもはや在籍しないが「モーニング娘。」であり続けている。大きく3つの時代があったともいわれ(参照、阿部巧「【知りたい】モーニング娘。は「3つの時代」をこのように闘いながらアイドルの新たな道を切り開いてきた」https://rockinon.com/news/detail/187864)、新しいアイドルの概念を提示してきた。正しい「アイドル」というものはないか、あるいはすべての「アイドル」が正しい。それが自分にとっての「アイドル」である限り。

 トークのなかで、自分のやりたいこと、価値観というものを大事にしていたゆっきゅんさんの発言は、力強く。表現者としての強みとなる原動力が心の芯にあっていいなと感じた。

 

Ⅳ 「女の子よカメラを持とう」——創作(表現)と批評

(1)企画の意義

 アイドルの現在のあり方にも共通するのが、表現者パフォーマーと観客(批評)の関係の変化である。だがこのような表現と批評の関係を論じる前に、ふくだ監督の作品とトークについて。ふくだ監督の語りは熱量が高く、語りそのものが芸術のような強度をもった人に届くものだった。ふくだ監督の山戸監督への想いの強さは感じられ、ユリイカの山戸結希特集に寄稿しているとのことなので必見だろう。まずこの企画の意義について、若い女性監督を結集させて、交流の場を生んだことの重要性を語った。個人的な影響も言っていたが、友好関係、人的なつながりが増え強くなったことで、創作の意見交換が活発になり刺激を受け合っているという。これだけの女性監督が集まっていて、動員も沢山の女性が来ており、男性の方が少ないという映画の作り手・受け手のジェンダー的な革新も、それ自体有意義なことだと思う。

 またも東浩紀のどこかの動画での発言かツイートを思い出した。東が経営するゲンロン新芸術校という芸術家養成スクールの成果展の講評で経験したことについて語っていた。賞に選ばれたある生徒の作品について、女性から暴力性を感じると指摘されたが、東はそれを言われるまで気づかなかったと言い、しかし自分が「男」である以上こうして暴力性を見落とす、感じないことは、詰まるところ不可避だと言う。それは暴力性の対象、被害を受けている「女性」とそうでない「男性」ではそうした違いがあって当然だと。

 ここで何も東は自己弁護をしているわけではない。彼が主張するのは、審査員のジェンダー平等だ。女性にしか分からない暴力性があるのなら、女性を審査委員に入れるのは当たり前だ。女性にしか言語化できない現象が現実にはあるのだ。女性にしか語れない言葉があるなら、女性があらゆる場に等しくいるのがフェア(公正)なのではないか。政治の場でもそうだし、表現の場でもそうだ。旧態依然としたアート業界の権力構造が批判される。映画の世界でこうした明るい動きがあるのはとても嬉しい。

(2)ふくだ監督「セフレとセックスレス

 ふくだ監督は、自身の作品について、最終的にハッピーエンドだよねと言われて、そうかもしれないと、そのことを胸に留めているそう。たしかに、「セフレとセックスレス」ではそうした思考が現れているように感じた。身体から愛に重心が移ってしまい——複雑なのは身体も心と連動することなのだが——愛を肯定するけど、登場人物の人物像の推測、特に男がやはりダメ男なのではという印象から、そう上手くいくんだろうかとおもってしまう。

 けれど、愛の肯定はやはり美しく、この肯定を説得力あるものとして訴えかけるための文脈や装置を見ることができたなら、それは素晴らしい作品になるだろうと、本作を観て感じた。もちろん、本作もよかった。トークでも言及されていたペディキュアのシーン、身体と心の関係性のモチーフになっていてこの些細なやりとりに本質が表れているのが凄い。電子タバコの比喩も、文章を書く人っぽいなと思った。

(3)表現と批評

 さて、枠の両義性からアイドルとファンの関係へと展開し、それが表現者・作り手と観客・受け手(批評)の関係に通じるという、話に戻ろう。

 山戸監督は批評と創作の関係を大事に考えており、「女の子よカメラを持とう」を合言葉に、映画を観た人たちに「カメラを持ってほしい」と呼びかけ、作り手と受け手という分断を壊そうとしている。

 表現はコミュニケーションだ。ここに集まっている作家たちは、別な表現を受け取り、自分の表現をどこかに投げ返している。「投壜通信」のように、壜に入れた自分だけの言葉が見知らぬ海辺の誰かへと伝わる。監督とも出演者とも何の関係もない僕や他の観客が、彼らの言葉を受け取る。僕らは何か言葉を投げ返すべきだ。投げ返したい。自分の言葉を。自分の言葉を発することは、それ自体美しいと思う。それは創造的な行為であり、だからこそ批評というのも創造的なものであるべきだ。山戸監督もふくだ監督の文章についてそのような美しさがあると言っていた。

 そして山戸監督は、カメラがたくさん映画の中に出てくることについての質問に対し、「カメラを持とう」というテーマでいう「カメラ」というのは「即物的な意味」でのカメラではないと言っていた。それは私たち自身の「まなざし」だと、他者と、世界と向き合い、それを通じて「自分自身で自画像を取り戻す」ということが、山戸監督は表現と批評の原動力/表現力だと考えているのではないか。そう考えていないとしても、僕自身がそうだとこの作品とトークを観て、そう考えた。こうしてコミュニケーション(=表現-批評)が行われる世界は、豊かな世界だと思う。

 この記事で敢えて「創作」という言葉を「表現」と言うのは、このような意味でだ、つまり「創作」という何か物をつくるという意味でだけでなく、こうして作品に対して自分の言葉を発する、感想・批評を書くことも創造的な価値を持つだろうと信じているということだ。日常的な会話でさえそうかもしれない。その創造性の相対的な差、グラデーションのようなものはあるだろうが、コミュニケーション自体に創造性があり、自分の言葉を発する勇気こそが大事なのだと思う。

 そうして自分の言葉を発する僕たちの背中を、ふくだ監督はたしかな熱量で押してくれている。ふくだ監督だけではない。山戸監督はその先人であるだろうし、あの多摩市立永山公民会館ベルブホールには、表現を支える熱があった。

 

Ⅴ 結び——自分の創作に向けて

 熱気を感じたトークを終え、僕は表現する勇気をもらえた。いろいろと夢はあるが、小説を書くのは一つの夢だ。書きたいことも沢山ある。今日の上映からまた表現したいことが増えた。表現からもらったことは表現で返していきたい。あらゆる人と同じように、僕のアイデンティティも暴力にされされている。だからこそ表現を通して「自分自身で自画像を取り戻」したい。

 僕は小説を書きたいから、そのときに大事だと思ったことを最後に。表現をするとき気をつけていること、支えになっていることは何かという質問(トークのなかで「表現のモチベーション、動機は何か」くらいの質問になっていた)に対して、俳優の木口健太さんが、現実世界の嘘と答えられていたのが、おもしろかった。

 現実の世界での嘘に腹が立っても、でも本当の気持ちはなかなか出せない。人目を気にして泣いたりできないとか。でもお芝居ならそうした本当の気持ちを出せる。演技って嘘なのにね、と言われていたけれど、まさにそれが演技のすごいところだなと。監督・作家の仕事というのは、その演技(嘘)が本物でしかないように道のりをちゃんとつくってあげることなんだろうと、そして自分が創作するときにはそのことを大事にしようと思った。実在の人間に演じてもらうのであればその人に、たとえフィクションでもその登場人物が本当の気持ちでいてもらえるように環境、文脈を整えることが仕事なのだと。

 本当に今日は沢山の刺激を受けた、素晴らしい日だった。こうして素敵な映画をつくる人がいて、それを上映する場があり、観に来る人がいるということが貴重だと感じた。こうした場を用意してくださっているTAMA映画フォーラム実行委員会と制作者、文化を支えている他の来場者の方々に感謝の気持ちです。ありがとうございます。

高坂希太郎監督『若おかみは小学生!』2018年

 講談社青い鳥文庫から全20巻で出ている、令丈ヒロ子若おかみは小学生!』(2003-13年)が原作。漫画も全7巻で出ていて、今年の春夏でアニメ化されたところ。

 

 

 原作読んでなかったのも、アニメ見逃してたのも悔しくなった...めっちゃええの

 

 ワンカット、ワンシーンが短いのか、テンポ速く物語が進んでいく。主人公おっこの元気いっぱいさも、展開を推し進めていく。

 

 おっこは、交通事故で両親をすぐそばで亡くす。それからおばあちゃんの旅館に引き取られて、半ばなりゆきで気の進まないなか若女将として旅館で働くことになる。

 

 天真爛漫さから、あるいは両親の死の現実感のなさ(おっこは両親を生きてるように感じている)から、普通かそれ以上に元気な子供として、さらには若おかみとして過ごし、また成長していく。

 

 でも車で出掛けるときに、事故のトラウマにおそわれる。このあたりの展開、緩急が凄い。一気に観ている側もトラウマに引きずり込まれる。が、ここでは事もなく乗りこえる。観客も一安心とほっとし、爽快感の溢れるハイウェイから、ショッピングモールでのお買い物シーンでは、すごく楽しげで解放感がある。

 

 序盤に、同じころ母親を亡くした、あかねくんと出会うが、このときおっこは死を乗り越えてがんばっている姿を見せた。その後もまっすぐながんばりでお客さんのために尽くし、問題を解決していく。

 

 ところが終盤のシーン、ケガしたお客さんが両親の事故の相手だったことを知ったとき、おっこの傷の深さに気づかされることになった。当たり前だ、おっこはどこにでもいる小学生の女の子なんだ。すっかりおっこの元気な姿に安心しきっていた。

 

 本当に両親がいなくなってしまった。喪失感がいきなり形をもって、ズンと心に沈み落ちてくる。打ち震えるような動揺も、それまでの主人公と一貫して演じる、小林星蘭の演技は見事だった。

 

 というかこの山場、小学生のおっこが、両親の事故の相手と出会い、かかわっていくこの困難すぎる場面、そしてそこからラストまで、素晴らしいとしか言えない。展開にこうも乗せられるかってほど乗せられる。

 

 物語も綺麗に回収され、エンディングもまたいい。

youtu.be

 

 トラウマの深さの表現てかなり難しいと思うんだけど(計量のしようがない)、ここまで観客に痛みを感じさせられるアニメーションがあるとは。しかも全く「リアル」とは思えない画だと最初思ったけど、これがなんだかすごい生きてる。

 

 この映画のよさを語り尽くせない表現力のなさがもどかしいが、もうあとは観てほしい。

 

 アニメーションの技術的なところでも、非常に新しい画面ということが誰の目にも分かると思うし(ジブリと監督は近いけれどジブリのタッチでは全くない)、ここらへん別に詳しいわけでもないけど、表現の形式が表現内容をしばっていないことも魅力に感じた。

 

 あとは蛇足かもしれないけど、随所でのリベラルな思想も感じたし、田舎や伝統みたいなものを新しい時代に合わせて提示している点も好感だった。

 

 あかねくん親子はパソコンにタブレットを使っていたり、おっこの同級生の真月の旅館は豪華でイルミネーションなんかしてる(でも自然と調和させたかたちで)けど、田舎の距離感や知や技術の継承のなかでは、それほどそういったものが目立ってこないことも自然だった。

 

 と、散漫に書き連ねただけになってしまったけど、ほんとうにいい作品だった。アニメも原作もチェックしたいし、また観かえしたい。

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<追記>

宇多丸最新映画評(1週間経ったら聞けなくなるかもしれないけど、開始30分18:30~)がめっちゃよかった、そしてそこに言われている通り、僕も読んだけどパンフレットの監督インタビューがもう完璧な説明だったね

https://pbs.twimg.com/card_img/1057076063346450432/TaEKL7sD?format=jpg&name=600x314

パンフレットでは、3人のお客がおっこの現在・未来・過去のイメージに重ねられていることや、映画では説明されない神楽の裏設定(というより神楽に込められた意味、つまり神楽自体の物語)が本筋のストーリーとも重ねられていたこととか、ロケ地なんかの制作ノート的なものも見れていい。 

 モデルやロケ地が載ってるから聖地巡礼したくなるねコレは、マストでしょ。

サミュエル・ジュイ監督『負け犬の美学(原題:SPARRING)』(2018年)

 新宿で、ハリー・クレフェン監督『エンジェル、見えない恋人(原題:Mon Ange)』(2018年)を観た後に、ハシゴして観に行った。

 

 『エンジェル』はすごく抽象的な映画で、登場人物のストーリーがほとんどない。社会からも隔絶されている。生活感というものがまるでない。エンジェルっていうくらいだし、神学的なモチーフがあるのかもしれないし、美と聖性みたいなものを映す、あるいは撮ろうとしても撮りえないものの美を表現する映画だったのかもしれないけど、正直おもしろくなかった...。

 

 ほとんど唯一といっていい設定の、いなくなったマジシャンの父もおそらく物語の筋に全く絡んでいないし、見えないものの美しさというなら化粧をして見えるようになったことでキャッキャして多幸感の溢れるシーンは矛盾だし、トンネルをくぐるシーンが2回あったけどあまり意図が汲みとれなかったし、という釈然としないことが多かった。

 

 宣伝がファンタジックな世界の恋みたいな感じなの、ちょっとミスリーディングじゃないかとも。みたいな感じで消化不良で、『負け犬の美学』を観に行くことに。

 

 やっぱり具体的に生活が見える作品の方がいい。スーパーで計量をごまかすことで会計をちょろまかしたり、めちゃくちゃ煙草をつまむようにしてまで吸ったり、チャンピオンのタレクと主人公スティーヴのジャージが全然違ったり。細部が物語全体を立ち上げていることが分かる。

 

 49戦13勝3分33敗の弱小中年ボクサーのスティーヴが、娘にピアノを買うためにチャンピオンのタレクのスパーリングパートナーになる。そして最後に引退すると決めていた50戦目に、チャンピオンの欧州王座をかけた戦いの前座の試合に出させてもらうことになる。とまあこんなあらすじ。

 

 スティーヴは自分の持ち味を分かっている。「打たれ強さ」だ。だからラストの試合の勝敗が分からなくても、勝敗はどっちでもいい。でもあの試合には勝ったんじゃないかと思う。無論負けていてもスティーヴは後悔しないと思うけれど。

 

 最後の試合の後、娘のピアノの演奏会のシーン。ショパンノクターンがそれは下手くそに弾かれるんだけど、これがちょっと沁みる。審査員と思われる人たちの「やれやれ」みたいな視線を集める娘オロールが、チャンピオンとの公開練習でボロボロにされ罵声を浴びせられたスティーブに重なるから。

 

 スティーヴは娘に、どんなに下手くそでも続けることが大事なんだ、そうすれば最後には...みたいなことを言ってた(正確なセリフは忘れちゃった)。チャンピオンとのスパーリングは危険だが報酬がいい。「打たれ強さ」で得た報酬でスティーヴは家族を幸せにする。

 

 カジノでのチャンピオンとのやりとりもおもしろい。ボクシングをそんなに負けてても続けることはできないというタレクに、スティーヴは「好きだから」と言う。「殴られるのがか」と言われて「違う...」と言う。

 

 スティーヴにとってボクシングは勝つためのものじゃなくて、それ自体ボクシングをすることそのものが楽しくて好きで、それで生きていってもいる(レストランでも働いているけど)。

 

 普段日の当たらない「負け犬」にスポットを当て、その生活と美学が決して誰にも「負けていない」ことを映し出した。チャンピオンの影に隠れる小さな幸せと、その幸せを勝ち取る逞しい努力を描いた素敵な映画だった。

 

 ところで、チャンピオンのタレク役のソレイマヌ・ムバイエは、フランス生まれのプロボクサーで06年に第32代WBA世界スーパーライト級王者なんだと…そら強いわけや

 

長尾龍一『リヴァイアサン』(講談社学術文庫、1994年)

 著者の30年以上にわたる、ホッブズ、ケルゼン、シュミットの3人の国家論を基軸とした国家史の再構成の試みがわかりやすくまとめられた、国家論史研究の書。具体的には、国家批判の書だとされ、特に「近代主権国家による世界分断の批判」が中心主題となっている(3頁)。

 

 まず第一部 国家の概念と歴史。

 国家観には大きく4つある。

①共同体(アリストテレス

利益集団ホッブズ

暴力装置エンゲルスアナキスト

④同一の観念による支配(ex.カインとアベル

 フロイトは「国家とは超自我の虚焦点である」といい、群衆が超自我の投射された対象に従順に服従することを説明したが、これは④だけでなく他の国家観にも当てはまる。すなわち①~③において、「父祖の国制」、「レヴィアタン=可死の神」、「装置」が超自我である。

 

 フロイト理論の国家論的意義にケルゼンは着目し、彼は国家を「擬人化された法秩序」と定義した。ここで「擬人化」というのが超自我の投射に相当する。では法秩序あるいは法とは何か。

 

 法の定義は大別して、強制説と非強制説にわけられる。

強制説——自生的・自発的な秩序の領域(道徳の領域)からの逸脱行動については強制

 力による抑止が必要。その強制力発動の条件を定める規範体系が法。

非強制説——人々から共通に受け容れられている強制的な、あるいは非強制的な秩序

 

 そして国家起源論は、強制的法観念(強制説)を基礎に展開してきた。つまり、法違反に対する強制が、被害者の復讐という非組織的なものから、一定限度の組織性を備え、「暴力装置」とも呼べるものになったとき、国家が成立する。

 

→国家とは「擬人化された法秩序で、違反に対する強制がある程度組織化されたもの」。ex)社会契約説(自然状態→国家の創設)、エンゲルス(「原始共産社会」→「階級搾取のための暴力装置」)

 

 この国家は、強制力のあり方に応じて拡大してきた。守城技術が攻城技術を上回っている間は、城壁内に立て籠もる都市国家(ポリス)がそれであり、攻城技術が逆に上回ると帝国が誕生する。

 

 ここで帝国とは、①内に多様な民族・文化を含む、②全世界を包摂するような宇宙論的存在である。これは広汎な領域に交通網を張り巡らし、そして人々に安定を与えた。大航海時代の幕開けはこれを支えていくようにも思われた。

 

 しかし、16世紀西ヨーロッパの宗教戦争は、帝国を地域的に分断し、「主権国家」を誕生させた。

 

 宗教戦争の凄惨さから、宗教問題を多少とも棚上げすることによって、現世に秩序を作り出そうとする思想と実践が生まれる。

①各宗派の支配領域の地域分割(ex.アウグスブルクの宗教和議)

②宗教から独立した領域を承認し、それを基礎として現世に秩序を形成しようとする運動(ex.ボダンも属した「ポリティーク(政治派)」)。ここでは社会において「私事」として宗教が共存、非宗教的な国家がその共存の秩序を保障。=近代「主権国家」の原理

 

 宗教から独立した領域を認めるかというのは、それ自体神学的問題だったが、中世以来の神学の伝統の中に、この運動を支持する潮流があった。

 

 神には①「絶対的力」と②「秩序の中の力」の二面性があり、②によって作られた秩序は人間的理性によって接近可能な信仰の相違で左右されない領域であるというもの。「自然的理性」によって接近可能な「自然神学」、「自然科学」、「自然法」。→この方向の徹底は奇跡を否定する「理神論」に

 

 こうして近代「主権国家」は、地域的に限定され、脱宗教化し、現世の秩序を保障する主体、宗教戦争・宗教内戦の克服者として登場。

 

 この近代「主権国家」同士の関係はどうなるのか。18・19世紀のヨーロッパでは無差別戦争観がとられた(⇔正戦論)。とはいえ、最低限のルールもあった。すなわち、「ヨーロッパ公法」(これをシュミットは「具体的秩序」と呼んだ)である。

 

 ところが、遅れてきた主権国家ドイツは、「喜び過ぎて主権国家を取り巻く規律や厳しい環境についての自覚に欠け、「上位の権威を認めない」という16世紀的定義を文字通りに信じて、やがて国際的アウトローとなり、自滅した」。

 

 そして最後に第二次世界大戦後の展望が語られる。「今後の人類が直面する、環境・資源・人口・武器拡散などの問題について、人類の連帯による以外に対処することはできない。そして人類を連帯させる現実的な組織としては、国連を除外して考えること」はできないと結論する。

 

 国家は擬人化された法秩序であり、国際法秩序の中の部分法秩序であり、その部分を唯一神になぞらえた「主権国家」論は誤りである。

 

 以上が第一部のまとめで、国家論史の記述は分かりやすくていいけれど、展望に関しては「国連」を有効活用しようってことだと思うが、それは今の国連を言うというよりは理想的な像を描いていると思うのだけれど、具体的な構想については本書では書かれていないので何とも言えない。

 

 世界的な機関の必要性は分かるが、「帝国」には負の側面もあり、自分の関心はもっと小さい部分にあるということを読んでいるときに思った。

 

 次に第二部 近代国家の思想、気になったところを簡単にメモ。

 

「四 ケルゼンとシュミット」

・「真理でなく権威が法をつくる」とうシュミットの決断主義とケルゼン法実証主義(正義(自然法)よりも紛争が終わることの方が重要)との共通性。両者の精神的源流の一つはホッブズの国家論にあることから明らか。

・ケルゼンは法理論においてはホッブズ的な性格をもつが、政治理論においてはむしろルソー的である。ケルゼン民主主義論の中核=民主制の心理的起源を「他律に対する抗議」という「根源的衝動」に求めている。これは無政府主義的願望であるが、それを民主制へと変形する。(cf.「万人と結合しつつなお自己にのみ服従し、従前と同様に自由であるような結合の形式」ルソー『社会契約論』liv.Ⅰ,chap.Ⅳ)

 

「五 ホッブズとシュミット」

ホッブズとシュミットは、その解釈が3つの類型に分かれ、その各々が対応している点で似ている。

ホッブズ①絶対主義者、②近代的思想家、③正統的、キリスト教的思想家

シュミット①20世紀全体主義のイデオローグ、②現実主義的政治思想家、③政治神学者

[ボダンも似てるのではと思った]

 

「六 ホッブズとケルゼン」

・生命と自由の評価をめぐって分岐したホッブズとケルゼンは、「諦観的平和主義」において再び合致した。=自然法に対する実定法の優位(争いが終わることが何よりも重要)