山戸結希監督ほか『21世紀の女の子』2019年

Ⅰ はじめに

 「女の子よカメラを持とう×TAMA CINEMA FORUM 21世紀の女の子」TAMA映画フォーラム特別上映会(2019年8月24日)@多摩市立永山公民会館に行ってきた。見逃していて観たいと思っていたので、とても嬉しかった。しかもトークもあるという!

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21世紀の女の子@TAMA映画フォーラム特別上映会

 僕は第1部と第2部があるうち、第2部の方を鑑賞したので、山戸結希監督、安川有果監督、ふくだももこ監督、俳優の木口健太(ふくだ監督の『セフレとセックスレス』に出演)、ゆっきゅん(枝優花監督『恋愛乾燥剤』に出演)、司会睡蓮みどりのトークが観れた。

 映画は8分以内の15の短編が詰まったオムニバス作品(公式HP:http://21st-century-girl.com/)。8分以内とは信じられないほど高密度で、2~3倍くらいに感じた。1本1本に魂がこもっているのを感じ、観るのに体力がいる作品で、とても生半可な気持ちで観ていられなくさせるような作品なのだ。どれも話のつくり方、撮り方などが違い、作家性の強さを感じるような個性がよく出た短編が詰まっている。

 山中瑤子監督『回転てん子とどりーむ母ちゃん』が、自分のなかでは一番よかったと思う作品だった。テンポ、流れがよくて気持ちよく、映像に力があった。基本的にリアリティのなかでつくられる作品が多い中、抽象性が高い表現を用いているのに、メッセージがストレートで入ってきやすいという、ドキュメンタリーならぬ創作芸術の強みを見せつけられた。なんだろうあの表現力。抽象性は高いのに、手の届くところにある表現というのか、惹き込まれた。

 そして東佳苗監督『out of fashion』もよかった。主人公(モトーラ世理奈)カッコよすぎ。誰かにタイムリミットを決められたくない、っていう言葉がずしんと響いていて、最後の卒業式のはしゃいだ同級生を遠目に、主人公が手前を横切っていくのが最高。卒業したから「大人」になるでもなく、そんなのとは関係なしに大人であり子供である、自分の時間をただ自分として生きている素敵な一人の女の子。

 他の作品ももちろん素晴らしかったのだけれど、個別の作品についてはこれだけにして、トークの方について記したい。トークの方はメモをその場で取ることもしていなかったので、記憶が正確ではないかもしれないが、登壇者たちが言っていたことというのも、すべて「(大意)」をつけて読むくらいの気持ちで読んでほしい。

 

Ⅱ テーマ「自分自身のセクシャリティあるいはジェンダーがゆらいだ瞬間が映っていること」

 まず山戸監督は、創作(表現——以下創作と言われてたところも表現と記す)には、自分が壊れる直前まで悩むことが必要だと思うと言う。それは、壊れて感情をただ爆発させるのではなくて、その感情を批評的に見る、つまり他者に伝えられるような言葉にすることが必要だということだろう。そうした環境をつくりだすために、批評の対象となるだけではなく、映画(表現)がそれ自体批評であるためにこうしたテーマを投げかけたという。

 山戸監督が「批評」を大切にされていることが伝わってきて、とても嬉しかった。そして表現と批評の関係について、それらが完全に分かれていると考えていないことも重要だと感じた(そのことはⅣで論じる)。本作のなかのどれも論理的につくられていると感じることも多く、表現するにあたって、論理的に頭の中でよく整理されている、すなわち作品を言語的に理解する能力の高い人たちなのではないかと思った。特に山戸監督のっ批評的な(言語化する)能力はとても高いのだと思った。次に論じる安川監督の作品について「浮遊」という言葉で評したのが、その一例だ。

 

Ⅲ 両義的なものとの距離感——「浮遊」

(1)安川有果監督「ミューズ」

 安川監督は、自分自身、他人から枠に嵌められる、ある役割を望まれていると感じることがあると言っていた。「女の子」というのは、そうした「枠」(役割)の代表的なものの一つだろう。けれど、そうして枠を与えられることで息苦しさを感じることもあれば、それで得るものもあると言っていて、この物事の両義性を表現したいという気持ちが安川監督のテーマにあるんだろうと思った。物事の両義性の表現が表れているのが、山戸監督が言った「浮遊」感、安川監督の作品の見せ方、すなわち、本作のカメラの距離、位置、舞台のセットの使い方だ。ここに安川監督の物事の捉え方、言ってしまえば世界観が表れている。

 「浮遊」しているというのは、安川監督自身が言っていたようにその対象に「寄り添う」ということであり、ただあるがままを映すことに近いけれど、ともに困難ななかを生きるようなやさしさをもつことでもあると思う。人を枠に嵌め込むことの暴力がもってしまう認め難いプラスの効果をフェアに映したいという安川監督の気持ち(本作ではそれが十分できなかった、つまり「男が悪者」みたいに単純に見えてしまったとご自身で反省されていた)が、どう作品になるのか今後も楽しみ。

 三宅唱監督『きみの鳥はうたえる』とそのパンフレット、その他三宅監督インタビュー、対談から感じたことを今日再び感じたのは、カメラポジション、カットで世界観を立ち上げるということの重要性。安川監督が反省していたことと今後どのように格闘していくのか楽しみだ。きっと、どんな世界観をもつか、どう撮るかというのは、その対象から完全に切り離れてはありえないから、どう対象にかかわるか、監督自身の「監督性」、「語り」、価値観の提示、結論のようなものが積極的に出てくるかが鍵なのかもしれない、あるいはその価値観自体が世界観なのかもしれない。だからこそ、素晴らしかった「浮遊」する距離感という本作のバランスがどうなるのかが気になったり。

 カメラの位置でこだわったところで挙げられていたのが、石橋静河の踊るシーン。やっぱり石橋静河は最高だなと。台詞回しが一番好き。目に力があるのも、素敵な女性だと思う。

(2)枠の両義性とアイドル

 枠の両義性ということで、僕自身が思ったのは、最近ハマった大森靖子ハロプロのこと。大森靖子さんはエンディング曲も歌っていて、上映前後には大森さんの他の曲が流れていた(“流星ヘブン”、“TOKYO BLACK HOLE”、“君と映画”、“ハンドメイドホーム”とか、もう始まる前から最高という気持ち)。大森さんはアイドルグループZOCの「共犯者」として自らプロデュースすると同時にそのメンバーとなっている。大森さんは、人からどう思われるとかではなくて、自分自身がどうありたいかをすごく大事にしている(どの曲も歌詞がいいので聴いたことがない人は聴いてほしい)。

 「アイドル」というと、男の幻想(欲望)が投射された枠の代表のように思われるかもしれないが、ハロプロやZOC、いくつかの地下アイドルは、もちろんファン(観客)がいて彼らにパフォーマンスを届けるのだけれど、パフォーマンスの根底にあるのは、彼女たち自身の欲望だ。批評家の東浩紀が、以前何かの動画で高橋留美子を、「うる星やつら」や「めぞん一刻」を挙げてだったと思うが、初めて女の欲望を描いた(少年)漫画家だと言っていたのが印象に残っている(ぼんやりとした記憶なので正確には憶えていないが)。僕はその発言によって、自分がなぜ高橋留美子が好きなのかわかった気がした。

 僕自身は「男」だけれど、誰かを枠に押し込むことに気味の悪さを感じるし、気持ち悪いと思う。悲しいことにそうした暴力的な現実の代表が「女の子」だから、「女の子」が取りあげられている。「かわいい」「女の子」。「かわいい」はとてもポジティブな力をもっている。加入と卒業が繰り返されるアイドルグループは、羨望の対象であるだけではなくて、自己実現の場ともなろうとしている。他者の欲望が自分の欲望となり、それは段々と元の形を変え、自分のものでしかない欲望になっている。そしてだからこそ、その欲望はまた新たな他者の欲望になるべく、羨望のまなざしを受ける。

 モーニング娘。は、今や20年の歴史をもつアイドルグループだが、当初のメンバーはもはや在籍しないが「モーニング娘。」であり続けている。大きく3つの時代があったともいわれ(参照、阿部巧「【知りたい】モーニング娘。は「3つの時代」をこのように闘いながらアイドルの新たな道を切り開いてきた」https://rockinon.com/news/detail/187864)、新しいアイドルの概念を提示してきた。正しい「アイドル」というものはないか、あるいはすべての「アイドル」が正しい。それが自分にとっての「アイドル」である限り。

 トークのなかで、自分のやりたいこと、価値観というものを大事にしていたゆっきゅんさんの発言は、力強く。表現者としての強みとなる原動力が心の芯にあっていいなと感じた。

 

Ⅳ 「女の子よカメラを持とう」——創作(表現)と批評

(1)企画の意義

 アイドルの現在のあり方にも共通するのが、表現者パフォーマーと観客(批評)の関係の変化である。だがこのような表現と批評の関係を論じる前に、ふくだ監督の作品とトークについて。ふくだ監督の語りは熱量が高く、語りそのものが芸術のような強度をもった人に届くものだった。ふくだ監督の山戸監督への想いの強さは感じられ、ユリイカの山戸結希特集に寄稿しているとのことなので必見だろう。まずこの企画の意義について、若い女性監督を結集させて、交流の場を生んだことの重要性を語った。個人的な影響も言っていたが、友好関係、人的なつながりが増え強くなったことで、創作の意見交換が活発になり刺激を受け合っているという。これだけの女性監督が集まっていて、動員も沢山の女性が来ており、男性の方が少ないという映画の作り手・受け手のジェンダー的な革新も、それ自体有意義なことだと思う。

 またも東浩紀のどこかの動画での発言かツイートを思い出した。東が経営するゲンロン新芸術校という芸術家養成スクールの成果展の講評で経験したことについて語っていた。賞に選ばれたある生徒の作品について、女性から暴力性を感じると指摘されたが、東はそれを言われるまで気づかなかったと言い、しかし自分が「男」である以上こうして暴力性を見落とす、感じないことは、詰まるところ不可避だと言う。それは暴力性の対象、被害を受けている「女性」とそうでない「男性」ではそうした違いがあって当然だと。

 ここで何も東は自己弁護をしているわけではない。彼が主張するのは、審査員のジェンダー平等だ。女性にしか分からない暴力性があるのなら、女性を審査委員に入れるのは当たり前だ。女性にしか言語化できない現象が現実にはあるのだ。女性にしか語れない言葉があるなら、女性があらゆる場に等しくいるのがフェア(公正)なのではないか。政治の場でもそうだし、表現の場でもそうだ。旧態依然としたアート業界の権力構造が批判される。映画の世界でこうした明るい動きがあるのはとても嬉しい。

(2)ふくだ監督「セフレとセックスレス

 ふくだ監督は、自身の作品について、最終的にハッピーエンドだよねと言われて、そうかもしれないと、そのことを胸に留めているそう。たしかに、「セフレとセックスレス」ではそうした思考が現れているように感じた。身体から愛に重心が移ってしまい——複雑なのは身体も心と連動することなのだが——愛を肯定するけど、登場人物の人物像の推測、特に男がやはりダメ男なのではという印象から、そう上手くいくんだろうかとおもってしまう。

 けれど、愛の肯定はやはり美しく、この肯定を説得力あるものとして訴えかけるための文脈や装置を見ることができたなら、それは素晴らしい作品になるだろうと、本作を観て感じた。もちろん、本作もよかった。トークでも言及されていたペディキュアのシーン、身体と心の関係性のモチーフになっていてこの些細なやりとりに本質が表れているのが凄い。電子タバコの比喩も、文章を書く人っぽいなと思った。

(3)表現と批評

 さて、枠の両義性からアイドルとファンの関係へと展開し、それが表現者・作り手と観客・受け手(批評)の関係に通じるという、話に戻ろう。

 山戸監督は批評と創作の関係を大事に考えており、「女の子よカメラを持とう」を合言葉に、映画を観た人たちに「カメラを持ってほしい」と呼びかけ、作り手と受け手という分断を壊そうとしている。

 表現はコミュニケーションだ。ここに集まっている作家たちは、別な表現を受け取り、自分の表現をどこかに投げ返している。「投壜通信」のように、壜に入れた自分だけの言葉が見知らぬ海辺の誰かへと伝わる。監督とも出演者とも何の関係もない僕や他の観客が、彼らの言葉を受け取る。僕らは何か言葉を投げ返すべきだ。投げ返したい。自分の言葉を。自分の言葉を発することは、それ自体美しいと思う。それは創造的な行為であり、だからこそ批評というのも創造的なものであるべきだ。山戸監督もふくだ監督の文章についてそのような美しさがあると言っていた。

 そして山戸監督は、カメラがたくさん映画の中に出てくることについての質問に対し、「カメラを持とう」というテーマでいう「カメラ」というのは「即物的な意味」でのカメラではないと言っていた。それは私たち自身の「まなざし」だと、他者と、世界と向き合い、それを通じて「自分自身で自画像を取り戻す」ということが、山戸監督は表現と批評の原動力/表現力だと考えているのではないか。そう考えていないとしても、僕自身がそうだとこの作品とトークを観て、そう考えた。こうしてコミュニケーション(=表現-批評)が行われる世界は、豊かな世界だと思う。

 この記事で敢えて「創作」という言葉を「表現」と言うのは、このような意味でだ、つまり「創作」という何か物をつくるという意味でだけでなく、こうして作品に対して自分の言葉を発する、感想・批評を書くことも創造的な価値を持つだろうと信じているということだ。日常的な会話でさえそうかもしれない。その創造性の相対的な差、グラデーションのようなものはあるだろうが、コミュニケーション自体に創造性があり、自分の言葉を発する勇気こそが大事なのだと思う。

 そうして自分の言葉を発する僕たちの背中を、ふくだ監督はたしかな熱量で押してくれている。ふくだ監督だけではない。山戸監督はその先人であるだろうし、あの多摩市立永山公民会館ベルブホールには、表現を支える熱があった。

 

Ⅴ 結び——自分の創作に向けて

 熱気を感じたトークを終え、僕は表現する勇気をもらえた。いろいろと夢はあるが、小説を書くのは一つの夢だ。書きたいことも沢山ある。今日の上映からまた表現したいことが増えた。表現からもらったことは表現で返していきたい。あらゆる人と同じように、僕のアイデンティティも暴力にされされている。だからこそ表現を通して「自分自身で自画像を取り戻」したい。

 僕は小説を書きたいから、そのときに大事だと思ったことを最後に。表現をするとき気をつけていること、支えになっていることは何かという質問(トークのなかで「表現のモチベーション、動機は何か」くらいの質問になっていた)に対して、俳優の木口健太さんが、現実世界の嘘と答えられていたのが、おもしろかった。

 現実の世界での嘘に腹が立っても、でも本当の気持ちはなかなか出せない。人目を気にして泣いたりできないとか。でもお芝居ならそうした本当の気持ちを出せる。演技って嘘なのにね、と言われていたけれど、まさにそれが演技のすごいところだなと。監督・作家の仕事というのは、その演技(嘘)が本物でしかないように道のりをちゃんとつくってあげることなんだろうと、そして自分が創作するときにはそのことを大事にしようと思った。実在の人間に演じてもらうのであればその人に、たとえフィクションでもその登場人物が本当の気持ちでいてもらえるように環境、文脈を整えることが仕事なのだと。

 本当に今日は沢山の刺激を受けた、素晴らしい日だった。こうして素敵な映画をつくる人がいて、それを上映する場があり、観に来る人がいるということが貴重だと感じた。こうした場を用意してくださっているTAMA映画フォーラム実行委員会と制作者、文化を支えている他の来場者の方々に感謝の気持ちです。ありがとうございます。