ラナ・ウィルソン監督『ミス・アメリカーナ』2020年

不正義への怒りが止まらなくなる高血圧映画。しかしテイラー・スウィフトが格好良く美しい。疑問もなくある意味普通の感覚で、カントリーソングの女王として輝かしい地位を築き、政治主張は敢えてしない方がいいと自然に決めていた頃から、カニエ・ウエスト(口が汚くて申し訳ないがコイツは本当にゴミ...)の心無い侮辱に傷つき、衆目の的となりマスの誹謗中傷を受け、一度は表舞台から去る。再起し、裁判を経て力強く、しかし深く傷を負いながら、輝きを増し、新たな魅力を得たテイラー・スウィフトに、心動かされない人がいるんだろうか。
被害当事者になって、差別に向き合い、変革を求め力強く行動するという点でジェイ・ローチ監督『スキャンダル』に似た構造があったと思う。テネシー州選の共和党女性候補が女トランプと言われたように、女性を分断統治するような、しかもそれが通用するような社会の常識・環境が根強いのが困難な課題だ。しかし、テイラーの"Only the young"は希望を与えてくれる。only the young can run.変えていくことができるはずである。

アリス・ウー監督『ハーフ・オブ・イット』2020年

さすがのNetflixオリジナル。
音楽もいいし、オシャレ。哲学・思想、フェミニズムの引用が出てきて、田舎に埋もれた才能が他者と交流していき化学反応が起こる。これはNetflix作品のトレンドな気がするし、どれもこれらの要素で高品質に仕上げてるの凄い。とはいえ、何か似てるなあ感があって序盤は「またか」とか思ってると引き込まれていく。地力があるんだろう。
物語・構成と印象的な台詞がエッセンスになっている。
ラブレターの代筆というビジネス(等価交換)に始まり、複雑な心理を経験しつつ交流し、「愛とは何か」と自問させられる。

以下は映画を観て思ったこと。
代筆を頼むアメフト部のポールがほんとにいい役所で、理性的なだけでない抑えようのない気持ちとしての愛や身体的な本能的なレベルからの愛の重要性を教えてくれる。
また愛について、タイトルの言葉が冒頭に出てくる。プラトン『饗宴』の引用だ。失われた半身を探し出すことが愛だと。それは、思う相手と自分が完全な一体となることだが、実際、複雑な関係に複雑な気持ちを抱くのに、完全に誰かと身も心も一つになるとはどういうことか。
多様なセクシャリティを受け容れるとき、各人の愛を認めるということは、差異(違い)を受け容れることだろう。そういうあり方もあるよね、と。
「愛とは厄介でおぞましくて利己的…それに大胆(Love is messy and horrible and selfish ...and bold)」
愛とは「贈与」だ。「交換」とは違うから、それが相手のためになるか本当のところ分からない。その意味で「利己的」だけれど、見返りを求めるのでは「純粋な贈与」=真の愛ではない。だから愛には倫理が必要だ。けれど、守ってばかりでも関係は変化しない。そして関係が変化しなければできない贈与もある。そこには飛躍が必要になる。相手を傷つけかねない身体に根差した感情はおぞましいが、それでも大胆にならなければならない。
最高のエンタメでありながら、深いメッセージ性をもった良作。

ナンシー・マイヤーズ監督『マイ・インターン』2015年

時代を押し進める力強い作品。シンプルなストーリー・構図で、多少オーバーだったり派手な展開が悪目立ちした感がないでもないけれど、現実的だと思わせる説得力もあり演出がいいと思うところも多かった。特にテンポがゆっくりするシーンは胸に沁みる。
しかし何よりデ・ニーロがかわいすぎる。そしてやはり格好いい。こうピシッとスーツをきめて、ハンカチをもち、クラシックなアタッシュケースを使うのは憧れる。
思うにデ・ニーロ演じるベンは、現代の生活で失われた、あるいは阻害された、アナログなもののメタファーという抽象的な存在かもしれない。ただ教養と経験のある年配男性が、才気溢れる若き女性を成功に導く物語ではない。
アン・ハサウェイも魅力的だった。しなやかな強さをもちつつ、繊細な内面をもち、必要以上に肩に力を入れてしまうジュールズを十二分に演じていたと思う。
 

マイク・ニューウェル監督『フェイク』1997年

潜入捜査官とマフィアの擬似親子関係。泣ける。アル・パチーノが弱くて少しどんくさく、全く強さを感じないんだけど、愛情を凄く感じる演技。
潜入捜査官の辛さもヤバい。妻とのすれ違いに、家族を傷つけようとせずとも傷つけてしまう辛さ。そして自分の命も落としかねない綱渡り。
ドニーの上司には本当に腹が立って仕方ない。これ観た人みな共感なのでは。
潜入捜査官側が背負うリスクと潜入先に抱く感情。彼らが犯罪から手を引けない、マフィア稼業から足を洗えない心理・圧力に、親密になり抱く憐れみ。
潜入捜査官として成果を挙げるには、ただ犯罪の瞬間を待つのではなくて、犯罪を誘発することまでしなければならない。(これは法学部的には怪しいとおもうところなんだが…。あとさらに言えば警察の最初の手入れ、すなわち店の新装開店のときの突入は、グラス割りまくったり、あれなんの必要か分からないし、どういった正当性があるのか疑問だ)


最後のレフティに思いとどまらせようと説得する場面にも心打たれたし、そこから逆に裏切りを疑われたときに潜入捜査官として(殺される)リスクを回避し職務を遂行するところには胸が痛んだ。
もう最後は、レフティがドニーが電話してきたら伝えてくれと妻に残した伝言、「If it was going to be anyone, I'm glad it was him」。直訳すれば、「それが誰かであるなら、それが彼であって俺は嬉しい」。これは字幕で、「お前なら、許せる」となっていて、名訳だと思う。
なぜ許せるのかという野暮なことを言えば、ここではニッキーを裏切り者として殺した帰りの車中での会話が伏線になっている。「20年来の仲間をそれだけのことで消しちまうのか?」というドニーの台詞には、マフィアが、あるいはマフィアにおける親子・友愛の関係が、儲ける儲けないの関係以上のものだという気持ちが溢れているからだ。
日本のヤクザや、ひいては家族的といわれた会社が、ビジネス的な結びつきに純化していくときに失われてしまうものに、愛着を感じてしまうのは僕だけだろうか?

マーティン・スコセッシ監督『ギャング・オブ・ニューヨーク』2001年

デカプのちょっと小汚なくて野生み溢れる感じが、たまにカッコよくも見えるときがある。キャメロン・ディアス綺麗すぎる。
アイルランド移民流入の歴史、移民が力で真の市民権・平等を勝ち取っていく過程が描かれる。アメリカ史って歴史的にも別に綺麗に語られるわけではないと思うけど、相当に悲惨な流血によってその大地が堅められているか。公民権運動やフェミニズム運動までやはり運動が先にあり、法や制度が変わっていく。
運動とは行儀のいいものではなくて、血で血を洗う凄惨なものでもある。力が正義ではないが、力なくして正義はないと、歴史は語る。スコセッシを観ているとアメリカ史を体感できる気がする。
 

ジョン・アヴネット監督『ボーダー(RIGHTEOUS KILL)』2008年

やられた、見事な筋。『ヒート』の後に観たから余計に驚きが。
敵同士だった二人、デ・ニーロ、パチーノが今度は信頼し合うバディに。ラストは涙を流すわけではないが、泣ける、胸に来た。
物語の中心にあった犯罪者の連続殺人は、法という染み一つない正義を守るためのものだったんじゃないか。それが一人の弱さと結び付いて歪んだ形で表れた。それを描いた映画だったのだと思う。

トッド・フィリップス監督『ジョーカー(JOKER)』2019年

filmarks(@decaultr)に感想書いているものが長くなっちゃって、ブログみたいだなと思ったので転載していこうと思う。差し当たりそのまま載せるけど、興が乗れば書き足して自由にもっと長く書くことになるかも。まずは『ジョーカー』。

 

ポピュラー映画として成功していながらこの重み。スコセッシへのリスペクトを大きく感じる。しかし、『キング・オブ・コメディ』、『タクシードライバー』での、他者・社会とのディスコミュニケーションが、マスメディア(テレビ・新聞報道)によって無害化され、あるいは吸収されてしまうのに対し、『ジョーカー』はそれをポピュリズムの力に変える。
だからこそこの映画は政治的な力をもつと思う。それが成功すれば。でも私見では、スコセッシの描いた戦後、あるいは(こう言ってよければ)「ポストモダン」の社会の不気味なまでの権力の形は、もっと手強いのではないかと思う。
ディスコミュニケーションが無害にコミュケートされることの不気味さ。分かりやすい対立構図で、二項対立的に全面対決できない状況。戦争の時代の後の、まさに戦後の、権力とはいわく捉えがたいものになっている。
このなかで取りうる戦略はポピュリズムしかないのか?果たしてそれは成功しうるのか?色々と考えさせられる映画だった。
ジョーカーは見た目に反して不気味ではない。得体の知れなさがなく分かりやすい存在として描かれている。だからこそ共感を呼び政治的な力を喚起する。しかしそれで十分か?闘うべき対象はしかと見定められているだろうか?不気味で得体の知れないのはむしろ権力・社会の方だ。